でも、なんで嫌がるんだろうな、と思う。
あたしは、自分のコメント欄で長文を書かれても気にならない。というか、むしろ嬉しいと思うだろう。自分が書いた文章から色々考えて、それを文章にして伝えてくれた人を嫌いになんてならないよ。長文を書くのは大変だろうと思う(そうじゃない人もいるかもしれないけど)。でも、大変じゃなくても、打ち込むのに時間は掛かるよね?時間を掛けてコメント欄に一生懸命書いてくれたその人をどうして嫌うことができるだろう?
長文大歓迎
自分語りもちろん大歓迎
そう思うのは、あたしがその彼女を大好きだから、彼女の書くものが好きだから、だろうか。他の人だったら鬱陶しいと思う?それはあたしにも分からない。今のところ、凄い長文をコメント欄に書かれた事がないから。
だから。
誰か、試してみる?
彼女以外の人の書く長文コメントを、あたしが鬱陶しいと思うかどうか。実験してみる?
なんて、そんな奇特な人はいないか。
ただ、彼女以外でも、あたしが好意を持ってる人だと実験にならないんだよなぁ…。
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はじめまして、Mといいます。
以前の記事「本家とちょっと連動するけど」に関して書きます。本当は「嘘を言ってはいけない」という倫理が違うと思うのです。ひとを「真実の呪縛」から解くこと、それが近代の課題でした。世界で初めて契約書というものが生まれたのは、真実を引き受ける空間として契約というものが成立し、それによって人は人に嘘を語っても許される(違法ではない)という倫理の緩和をもたらすためでした。契約書の誕生はとても大きなものをもたらしたと考えています。ネットは、それと同じ線上にあって、それとは違う真実からの解放を作り出したように見えます。それは性別年齢名前、そして見かけによる印象などからの解放です。そこで解放されることは一種の「嘘による平等」を産み出しました。自由ではありません。なぜそれらの真実から解放される必要があったのでしょう。偽の性別偽の年齢偽の名前で初めて語ることのできる「真実」もあるからです。そこでは嘘は、直接語ることができない真実を語るためのひとつの方法だったです。
問題は、なぜ真実による呪縛を相手に課すのか、そこにあるだけだと思いました。本当に円満にいっているふたりは、暗黙的には「嘘を言ってもいい関係」だと思います。騙されてもいい関係です。それを明言してはだめですが。
長いコメントになりました。コメントについては「コメントとは何か」という記事を書いています。時間があれば読みに来てください。
http://freezing.blog62.fc2.com/blog-entry-241.html
まずは一つ宜しいでしょうか?
>以前の記事「本家とちょっと連動するけど」に関して書きます。
そう仰るなら、その該当記事にコメントして頂きたかったです。
で、本題に入りますが、
>「嘘を言ってはいけない」という倫理が違うと思うのです。
と書かれていますが、この「倫理」と言うのは社会一般の考え方として捉えても宜しいでしょうか?私はそうは言っていないので。
そして、「契約書云々」の話は私には少し難しすぎて解りかねますが…。
ですので、「嘘」についてだけ私の考えをここで述べさせて頂きます。
私としては、「嘘はいけない」とは一概には言えないと思うんですよね。それは、現実世界でもネットの世界でも同じです。「嘘をつく」ということだけでなく、「真実を語らない」ということに置き換えても同じだと思いますが、自分の情報を全てそのまま隠さず伝える必要はないのではないでしょうか。「隠す」事は特にネットの世界では「悪いこと」という認識はないですよね。個人情報を晒しまくってる馬鹿はそうそういませんもの。
そして、Mさんが仰ってる「嘘を言ってもいい関係」というのは私が考えるに「そんなものはない」ですね。誰でもが嘘をついても構わないんです。ただ、該当記事にも書いていますが、その「嘘」だったり「嘘かもしれない言葉」だったりするものを無条件に信じてしまう人が多いことが問題なんだと思っています。「発信する側」ではなく「受け取る側」の問題なんですよ。あまりにも簡単に信じてる人が多いことに少し疑問を感じたので記事にしました。
そして、騙すなら、最後まで上手に騙して欲しいものですね。私は「最後までつく完璧な嘘」は好きですよ。
「コメントとは何か」という記事も拝見しました。色々思うことはあるのですが、それはまたの機会に記事にできたらしようと思っています。
もしかしたら、書かないかもしれませんが…。
×まじめまして
○はじめまして
です。
すみません。
第二に、
>あたしの友人は嘘なんてついてないと信じてるし、信じたいし、信じさせて欲しい。
ぼくはこれに反応しました。これは嘘をつかないでほしいと告げています。現実には「嘘を許さない関係」があるのです。「嘘を言ってもいい関係」はそれに対置するものです。
最後に、
議論なんてまったくしたくないのですが、安易に信じるなというのは、疑えということです。疑うのは信じたいがためです。この信じたいという欲望が嘘を禁止し、悪にするのです。
だから安易に信じるな、というのは逆です。安易に信じてしまえばいいいのです。そうなれば嘘は全部真実なのです。そしてそれこそが自分が自分をこうだと思い込んで生きる人の在り方そのものなのです。
でも、確かに自分語りではないですね。ついでに言うなら、長文と言うほど長いとも思えません。私の友人は、それこそものすごい長文書きなので。
それでも、私の実験に付き合ってくださりありがとうございました。
で、ですね。
Mさんが引用している私の言葉ですが。実は「嘘を許さない」とは言ってないんですよ。まぁ、そうは見えないでしょうけど。というか、故意にそう見えない書き方をしたんですね。繰り返しになりますが、嘘はついてもいいんです。ただ、それでも私は「嘘はついてない」と思うでしょう。だから、「騙すなら最後まで」なんです。
ああ、それから、「安易に信じるな」とは私は言ってません。従って、「疑って掛かれ」とも言ってないことになりますね。あんまり知りもしない人間の言うことを安易に信じる人が多すぎるので、そのことを憂えたというか。「なんでそんなに簡単に知らない人の言うことを信じてしまえるんだろう?」と不思議でしょうがなかったんですよ。ただそれだけです。
信じるも信じないもその人の自由。また、嘘をつくもつかないも自由だと思っています。